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第4回
皐月
「鰻の歴史」 大橋 一馬
2009.5.26駒形 前川

江戸は文化文政期から受け継がれてきた味を守り続け、多くの文人墨客に愛された『前川』。第4回「和人の会」は、駒形本店で、総料理長 後藤由光氏が会のために考案された特別料理をいただきながら、当主 大橋一馬氏にお話を伺いました。

川面から吹く風も心地よく、お話を伺ってからいただく鰻の味は、また格別。海外出身の2名を含め、参加者は皆「鰻好き」であることが判明。22名全員、大満足の会でした。

前川集合写真

〈6代目当主 大橋 一馬氏のお話〉

──前川の由来。──

『前川』と号して200余年、川魚問屋から転じて鰻の蒲焼きを始め、私で6代目になります。文化文政期は、武士以外名字帯刀は許されない時代ですから、店名は屋号で呼ばれていました。店の前を流れる隅田川。古来「大川」の名で親しまれており、「前に川が流れている」ことから『前川』となったそうです。
架かる橋も随分増えました。駒形橋も震災後架けられたものです。それまでは、舟で行き来しておりました。「新内流し」と共に芸者衆を乗せた舟が当店の前で泊まり、裏口から入って食事をして、再び舟で言問団子の方に向かう。舟遊びをしながら、料理を楽しむ、昔の方の遊び方には風情がありますね。

──鰻文化が花開いたのは江戸後期。──

鰻には歴史があり、縄文土器からも鰻を食した跡が見られます。滋養効果も古くから認められ、大伴家持が夏バテした友人に「胸黄(ムネギ)召しませ」と勧めた記述も残っています。当時の鰻は天然なので、胸が黄みがかっていることから胸黄(ムネギ)と呼ばれていたようです。
鰻の人気が高まったのは、江戸後期。それまでは、肉体労働に従事するような、下賎な人々が食すものでした。当時はブツ切りにした鰻を塩焼にして食べていたそうです。現在の背開き(関東)、蒲焼きという形になったのは、江戸後期。平賀源内の有名な「土用の丑の日、うなぎの日。食すれば夏負けすることなし」というコピーで、爆発的な人気となりました。庶民の食べ物である鰻屋の暖簾をくぐることに抵抗があったため、武士は出前をしたようです。
もう一つ、人気のきっかけとなったのは、黒船来航です。開国後、コレラ(当時はコロリと死ぬことからコロリと呼ばれていました)が大流行し、火を通したものを食すよう幕府からお達しがあったことから、鰻屋が繁盛したといわれております。
ところで、蒲焼きというのは、なぜ「蒲」というのか、ご存知ですか?河原に生育するガマの穂にその姿が似ていることから、そういわれるようになったという説があります。

──守り続けた秘伝の「母だれ」。──

当店のたれは、江戸期から受け継がれているたれを注ぎ足して使っています。このたれを「母だれ」と言います。関東大震災の時は、真っ先に「母だれ」の入った壺を藁で巻き、大八車に乗せて上野の山に逃げたそうです。大東亜戦争が始まると、私たちの店も営業ができなくなり、昭和18年逗子の一色海岸に疎開することになりました。その際もたれを持参し、戦後営業再開までの間、味が変わらぬよう火入れをし、冷ましを繰り返し、守り続けました。
池波正太郎さんや久保田万作さん、山田耕作さんにもひいきにしていただき、山田さんは天然鰻とたれの組み合わせが「味のシンフォニーだ」と評されました。当時は肝焼き、肝吸いもお出ししていなかったのですが、高村光太郎さんは、体の弱かった奥様の智恵子さんのために、肝焼きをご所望され、お土産にされていましたね。
今日、皆さまにお出しするのは、「坂東太郎」。江戸から続くたれとともに、お召し上がりください。

写真は老舗『前川』のうな重。
鰻はもちろん「坂東太郎」です。

前川会場の様子2

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